砕導山城の保存、史跡指定を目指そうと2021年3月に発足。現在会員数93人。
「東西約900メートル、南北約500メートルの遺構。砕導山城(さいちやまじょう)跡の自慢の一つが福井県内最大規模という大きさです。
1561(永禄4)年に起きた乱で、城主逸見昌経(へんみ・まさつね)が領民や軍勢約8千人を収容するため拡張したと伝わります。山自体に1周約2時間。ロープづたいで進む部分も越えて到達した頂上からは高浜町の海や青葉山を一望でき、その眺望の良さが二つめの自慢です。
兵士の見張り所や建物の構築にと使われた曲輪(くるわ)や土橋など『中世の山城の遺構の保存状態もいい』。三つめの自慢です。ふもとから山頂へかけてひな飾りのひな壇のように曲輪がつながります。
規模や保存状態から国史跡に十分値する山城として、保存会をはじめ地元が盛り上がっているのが四つめの自慢です。高浜中学校の生徒が作った案内看板が設置されいます。
逸見昌経は1561年の戦いに敗れ、4年後に再び挙兵し海岸に高浜城を築くがまたも敗北。その後、越前へ侵攻しようとする織田信長と手を結び、信長の下で若狭衆の筆頭格に上り詰めます。」
ぜひ砕導山城跡の規模を体験してください。
砕導山城跡は、佐伎治神社のすぐ脇から、背後の山全体に遺構が残されており、砕導山城砦群と呼ばれるほど大きな山城跡です。
城の規模は若狭国内最大ですが、基本的に曲輪、切岸、堀切を多用した、極めて原始的な山城です。「佐伎治神社曲輪」「愛宕神社曲輪」「妙見宮曲輪」そこから南東に伸びた尾根先の頂上にある「千丈ケ嶽曲輪」、さらにそこから東北に伸びた尾根に「天王山曲輪」で構成されています。兵士の見張り所や建物の構築に使われた曲輪や土橋などの遺構の保存状態も良く、ロープづたいで登る部分も楽しめます。各曲輪の頂上からは、高浜町の素晴らしい海岸線や青葉山を一望できます。
【標高】142m 妙見宮曲輪を山頂に拡がる山城
【遺構】東西900m 南北500m
若狭国内最大規模、主に曲輪・切岸・堀切・土橋などの遺構が見られます。
【築城】永正3年頃(1506)と推定されます。
【城主】逸見氏、(逸見昌経)
永禄4年(1561)5月28日、敦賀郡司朝倉景紀が1万1千人の軍勢を率いて若狭に出陣、逸見昌経が軍勢や領民を収容するために規模を拡張したと伝えられます。
【落城】永禄4年(1561)6月20日、越前朝倉・武田連合軍との合戦で落城しました。
この駅から、あの城跡へ。
海、山、里の風景を車窓に見ながら走るJR小浜線。沿線には地域の歴史を刻んだ多くの城跡が残っています。かつて若狭路には、土地の特色や時代のうねり、そこに陣取った武将のキャラクターを色濃く映した個性的な山城が築かれました。小浜線に乗って駅から城へ、鉄道と城跡めぐりを同時に楽しむ、のんびり旅に出かけましょう。心地よい汗をかいて山城へ登れば、体も心もリフレッシュ。長い歴史に思いをはせ、戦国時代にタイムスリップした気分を味わってみませんか。
※ 福井県若狭路城跡めぐりガイドブック 引用
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